日本唱歌の永遠の名曲「朧月夜(おぼろづきよ)」
作詞・高野辰之 作曲・岡野貞一によって大正三年に制作されました。
郷愁を誘うその美しい歌詞とメロディーから日本人に愛され歌い継がれてきた、正に日本の心ともいえる名曲です。
この大変格調高い文語体で綴られた朧月夜の歌詞ですが、はたして単に日本の春の美しい情景を歌っただけのものなのでしょうか。
実はその中に、何か別の大切なメッセージが隠されているのではないでしょうか。
まずは歌詞の全体の意味、内容を今一度確認した上で、この朧月夜という歌が本当に伝えたかったこととは何なのかについて考えていきたいと思います。
朧月夜 歌詞の内容と意味
まずは朧月夜の歌詞を見てみましょう。
菜の花畠に 入り日薄れ
見わたす山の端 霞ふかし
春風そよふく 空を見れば
夕月かかりて にほひ淡し
里わの火影も 森の色も
田中の小路を たどる人も
蛙のなくねも かねの音も
さながら霞める 朧月夜
朧月夜の歌詞は文語体ですので、かなり難解な言葉も多いため、まずはそれらの意味を簡単に説明し、それを踏まえて現代語訳を見ていきたいと思います。
- 「入り日」 夕陽
- 「山の端(やまのは)」 山の輪郭、山と空との境界の部分
- 「にほひ」 匂いではなく「色合い」という意味
- 「里わの火影(ほかげ)」 人里の家々の明り
- 「田中の小路をたどる人」 田んぼのあぜ道を歩く人
- 「さながら」 すべて、全部
- 「朧月夜」 ぼんやりとかすんでいる春の月の夜
特に「にほひ」に関しては勘違いされている方が多く「菜の花の匂いをかすかに感じる」などと間違った解釈をしないように気をつけてください。
あと題名でもある朧月夜の「朧月」とはあくまでも春の霞んだ月のことですから、他の季節ではそう呼びません。
そして次に現代語訳なんですが、若干の意訳はご了承ください。
菜の花畑に夕陽が沈み
見渡す山々には霞が深くかかっている
春風がそよ吹く空を見上げたら
夕月が空の色をほのかに照らしている
里の家々の灯りも、森の緑も
田んぼのあぜ道を家路に急ぐ人も
カエルの鳴く声も、お寺の鐘の音も
すべてが霞んでいく朧月夜
ここまでで歌詞の全体の意味はつかめて頂けたかと思います。
ではここから、この朧月夜という歌が本当に伝えたかったことについて迫っていきたい思います。
朧月夜 その歌詞と「五行」との関係
時間の経過
あらかじめお断りしておきますが、ここから書いていくことはあくまでも私個人の解釈だとご理解ください。
まず大切なのは、この歌の歌詞は決して日本の美しい春の情景を断片的に並べただけのものではなく、そこには「時間の経過」が明白に示されている、ということ。
つまりそれは、夕日が沈み日が暮れ始め、しだいに夜になってゆく様子を作詞者自身が実際に見ていることを暗示しています。
ここがこの朧月夜という歌が本当に伝えたかったことを考えていく上でとても重要なところになります。
そしてもしこの歌に一番の歌詞しかなかったとすれば、単純に日本の春の風景を歌ったものでしかなかったはずです。
そしてこの歌の本質とも言える二番に続きます。
異なる5つの事柄が意味するもの
一番の歌詞の構成とはかなり異なるため、この二番の歌詞に何か少し違和感を感じる人も多いのではないでしょうか。
二番の歌詞の構成ですが、異なる5つの事柄を「~も」により列挙し、そしてそれら全てが最後の「さながら」に係っています。
この5つの事柄で特徴的なのは、目に見える風景だけではなく、耳に聞こえてくる音も入っていること。
つまり初めは目に見えるものだけでしたが、次第に音までもが霞んでくるように作詞者は感じているわけです。
そしてここでも、やはり時間の経過を読み取ることができます。
またもうひとつの特徴は、自然の風景だけでなく人間の生活も描かれており、それらが交互に並べられていることです。
里わの火影も (人間)
森の色も (自然)
田中の小路をたどる人も (人間)
蛙のなくねも (自然)
かねの音も (人間)
そしてこれらの5つの事柄なんですが、一見するとそれぞれに何の関連性もないように感じます。
しかし私は「何らかの法則性のようなものがそこにあるのではないか」とずっと考えていました。
そしてある時ふと頭に浮かんだのが「ひょっとしたらこの5つは五行を表してるのではないか」ということだったのです。
五行とは「この世の全てのもの、この世の森羅万象は、木・火・土・金・水の5つの元素によって成り立っている」という思想。
元々中国から伝わった考え方ですが、それは日本独自の陰陽道へと発展し、暦や干支、年中行事など日本の伝統文化に多大な影響を与えました。
では朧月夜の5つの事柄をもう一度見てください。
里わの火影も (火)
森の色も (木)
田中の小路をたどる人も (土)
蛙のなくねも (水)
かねの音も (金)
このように五行の5つの元素に分けることができるのです。
ではもし仮に、本当に作詞者がそれを意識していたのだとして、なぜそこに五行を示す必要があったのでしょう。
私はこれを、最後の「さながら」をより強調するため、と考えます。
つまり作者は目の前に広がる風景や音を描写しながらも、この「さながら」とはこの世の全てのもの、森羅万象であることを暗示したかったのだと思うのです。
そしてなぜそこまでして「さながら」を強調する必要があったのか。
この点が「朧月夜という歌が本当に伝えたかったこと」へと繋がってゆきます。
朧月夜 この歌が本当に伝えたかった事
朧月夜の下にいる作者は、あまりに幻想的な空間に、目に映るものだけでなく、蛙の鳴く音や鐘の音までが霞んでくるような感覚に陥ります。
それはまさに「さながら霞める朧月夜」
そしてこの歌で最も大切なのは、「さながら」の中には当然作者の存在自体も含まれている、ということ。
つまり作者はあらゆるものと一緒に、自分自身の存在も朧月夜の下で次第に霞んできていることを感じているのです。
彼は自分が自然と一体になりかけていることを感じている。
彼は自分がこの世の全てとひとつになってくるのを感じている。
そしてこの歌は、畏怖の念を抱きながらも「自然と一体となって」生きてきた日本人そのものを歌ったものである、と私は考えています。
自然万物のあらゆるものに八百万の神々を見出し、すべての中で生かされているという日本人独特の自然観、宗教観。
世界の大半を占める一神教の「自然とは人間が支配するもの」という思想とは真逆のものです。
人間の存在などちっぽけなもので、自然のほんの一部にしか過ぎない。
だからこそ作者は5つの事柄に、人間の営みと自然の様子を交互に並べたのではないでしょうか。
この朧月夜という歌が凄いのは、そういった日本人特有の自然観を、日常の美しい風景の描写のみで表わしているところなのです。
そして自分の存在が霞んでくると感じているのは作者だけではありません。実はこの歌を聴いている私たちも同じです。
たとえ頭には美しい風景しか浮かばなくとも、我々日本人の中に脈々と受け継がれてきた独自の感性は、必ずそれを読み取る。
だからこそ私たちはこの歌を聴くたびに、単なる郷愁ではない何か悠久なるものを感じざるを得ないのだと思います。
なんと美しく、なんと雄大で、なんと優しい歌なのでしょうか。
図らずも涙があふれそうになるのは、私だけではないはずです。
長くなりましたが、皆さんはどのようにお感じになりましたでしょうか。